『英雄伝』から『チェーザレ・ボルジア』までの読書散歩
モンテーニュの『エセー』の話題が推移するままに、読み手の私の興味もあちらへこちらへと広がっていくような気がする。そのせいで、いろんな本を手にとることになり、読書に忙しい日々を過ごしている。
このブログにもたびたび顔を出すプルタルコスの『英雄伝』を読んでみた。意外にも、まるで小説を読むように楽しく読める本である。まずカエサル、ポンペイウス、キケロを読んでみた。スッラとアントニウスはこれからだ。宮尾登美子の『クレオパトラ』もここで再読した。三年前に一度読んだものだが、カエサルやアントニウスに親しみが増してきたぶんだけ、今回はいっそう興味深く読み返した。ついでに4時間の大長編映画『クレオパトラ』も、実に久しぶりで懐かしく鑑賞した。
カエサルの『ガリア戦記』に触れた関係で、ウェルキンゲトリクスとカエサルとの戦いを描いた、佐藤賢一の『カエサルを撃て』も読んでみた。この作家のものを読むのは初めてである。セックス描写がグロテスクなほどどぎつくて閉口させられたが、歴史上の事件を題材にしながらも、読者の意表を衝いた、思い切り大胆なその発想には驚嘆した。自らの考案になる戦術も交えてありそうな戦闘場面の書き込みは、読み応え十分だった。
ローマ帝国と初期キリスト教
オクタウィアヌスの時代と、彼の死後のローマの歴史も少し読んでみた。ネロの時代までのしばらくの間は、陰謀や暗殺による帝位略取が続いている。イエスの宣教がオクタウィアヌスの死(後14年)から間もない時期(26〜28年)に開始されていることにいまさらながら気づいた。イエス死後、まもなく使徒による伝道が始まり、イェルサレムから他の地域にも福音が広がっていく。ローマの大火(64年)では、放火の罪を着せられて多くの信者が虐殺されたという史実から、ネロの時代にはすでにローマにも多数の信者があらわれたことが分かる。初期キリスト教に対するローマの民衆や権力者の反応はどんなものだったのだろうか。ポーランドの作家シェンキェーヴィチに『クオ・ヴァディス』という、1905年のノーベル文学賞を受賞した作品があることを知った。この小説は一般の人気も高かったようで、62年には映画化されている。それを今回、レンタルのDVDで見た。
夫が元将軍という経歴を持つ、ローマ人夫婦の信者が登場する。信者となったのちは、それまで奴隷だった女を解放して娘のように慈しんで暮らしている。夕闇が降り、一日の労働を終えて街はずれの集会場所に集う信者たち。もちろん老夫婦と「娘」も来ている。その集会にパウロが現れ、遠くからやってきたペテロを信者たちに紹介する。もと漁師であったペテロの、その説教が素晴らしい。リアリティを感じさせるのだ。
ローマを焼き尽くした大火に遭って苦しむ市民たちの怒りをそらすために、ネロはそのキリスト信者たちを「放火」の罪で多数捕らえた。円形闘技場(コロセウム)にローマ市民を集めて、捕らえたキリスト信者たちを公開処刑する場面が出てくる。多数の信者を十字架につけて火あぶりにする。別の信者たちを、今度は闘技場に押し込んで、飢えたライオンの餌食にする。こんな残虐な処刑を、ローマ市民たちはまるで「サーカス」を見るように楽しんでいるのだ。*1
そんなローマでキリスト教がどうやって広まり、やがて国教になっていくのか。このへんが今後の課題になってくる。中世の十字軍から、ルネサンスまで追わなくてはモンテーニュには届かない。さて、どうやってミシェル・ド・モンテーニュまでたどりつこうか。
ルネサンスのヨーロッパ
そう、ローマばかりをやってはいられない。16世紀のヨーロッパこそ、ミシェルの舞台なのだ。とりあえずポール・ケネディ『大国の興亡』を手にとる。1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争、と副題にある。まず、1500年から1650年までの記述を読む。ハプスブルグ家の優越的支配が徐々に弱まっていく過程が描かれている。フランスも、この王朝のカール五世とフェリペ二世にはざんざん悩まされたわけだ。ユグノー戦争でも、スペインは旧教側の強硬派を支援する形で内政干渉している。世界歴史講座みたいな本から、宗教改革でのカルヴァンの活躍を追ってみた。カソリックのミサを激しく攻撃したプラカード貼付事件(檄文事件、1534年)以来の弾圧でフランスを去らざるを得なかったカルヴァンが、ジュネーブで「神権政治」を樹立する。その改革がフランスに跳ね返ってきて、やがて宗教戦争に発展する流れが見えてくる。このカルヴァンの神権政治というのは、私などの想像をはるかに超えた苛烈な独裁色を帯びたもののようだ。フランスのユグノー戦争(1562〜)の深刻さが少し感じられた。
この時代を取り上げた、もう少し軽い読み物を探してみた。塩野七生の《ルネサンス歴史絵巻・三部作》(83-87年)にたどりつく。『緋色のヴェネツィア』『銀色のフィレンツェ』『黄金のローマ』のシリーズである。塩野はこれまで読んだことがなく、今回初めて『緋色』を読んだ。ヴェネツィア貴族のマルコ・ダンドロと遊女オリンピアという、二人の架空の人物を設定した仕掛けがうまくできていて、なかなか楽しい。ミシェルが生まれたばかりの1530年代が舞台だ。オスマン帝国のスレイマンとヴェネツィアの諜報機関(十人委員会、C.D.X)との外交戦が描かれている。フランソワ一世のイタリア侵入(1521年)にも触れている。
70年に発表され、毎日出版文化賞を受賞している『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』も読んでみた。物語の中にも登場してくるマキアベッリは、この主人公チェーザレの冷酷な政略家ぶりに触発されてあの『君主論』を書いたとされている。まさに野望を胸にマキャベリストとして生き、その人生に相応しく悲劇的に死んだ男の物語だ。多くの歴史家からの評価はよくない。それをひっくり返そうという野心作のようだが、私の中では評価がひっくり返らなかった。
この作品は1500年前後のローマが舞台。ローマ法王の息子であるチェーザレが法王領の回復を大義名分として、ロマーニャ地方一帯の領主たちを次々に降していく。イーモラの城を守るカテリーナ・スフォルツァとの攻防も出てくる。有名な女傑の登場だ。チェーザレは降伏したこの女城主を陵辱している。この行為は、当時の周囲の人々からさえ激しく非難された。作者がこれをも擁護しているらしいのがどうにも解せない。配下の武将たちも、のちには一致してチェーザレに反乱を起こしている。決して優れた指導者とはいえないだろう。チェーザレは若いころ、ルイ12世に招かれてフランスに滞在した。ルイは彼を決して心よく思っていないのだが、離婚に承諾を与えてくれた法王への義理から、彼に城を与え、結婚相手まで探してやっている。
塩野の別のシリーズから『レパントの海戦』(87年)も読んだ。トルコ帝国のスルタンが強硬派のセリムに代替わりして、地中海の情勢がにわかに緊迫する。ヴェネツィアの外交工作によって、イスラムに対抗するキリスト教神聖同盟が結成される。スペインとローマ法王が加勢した「文明の衝突」あるいは海の十字軍だ。1571年、大激戦の末、神聖同盟側が大勝利する。シャルル九世(摂政カトリーヌ)のフランスは、スペインを牽制する戦略からトルコとは同盟関係にある。当然この戦争には手を出さない。国内の宗教戦争でそれどころではなかったということもあるだろう。この年ミシェルは引退し『エセー』の執筆にかかるわけだが、おそらくこの海戦に触れることはないだろう。
ひっかかる文章
こういう事情で『エセー』本文からはしばらく遠ざかった散歩を楽しんできたが、そろそろ復帰したくなってきた。先はまだまだ遠い。着実に一歩一歩読み進めていこう。最後にもう一言。今回の「読書散歩」ではあれやこれやを読んだが、これまで読んだことのない塩野作品を三点も読んでいる。大勢のファンを持つ人気作家ということだが、私には少々読みにくかった。慣れないせいかも知れないのだが、文章にひっかかるところがあるのである。振り返ってそういう部分を探すのも面倒だったので、三点目の『レパントの海戦』を読むときに、そんな部分をメモしておいた。一部を紹介してみる。
二十六歳の若者には、忘れられなかったのである。二百隻をうわまわる大艦隊をひきいるのが自分なのだという想いと、それを従えて、四十年近くもの歳月、地中海の主(あるじ)のごとく振舞ってきた異教徒トルコを撲滅できるかもしれないという想いが、若者の心を燃やしていたのであった。
この文章はどうだろう。最初の一文が、すっかり浮いてしまっていないだろうか。また、すぐあとの「それを従えて」という部分も、うっかりすると後に続く「四十年近くもの歳月」にかかっていくように読めてしまう。
トルコ側の放ってあった偵察船の報告では、接近しつつあるキリスト教諸国の艦隊は、自分たちと同じ規模かそれ以上の大艦隊であるという。ここは、このまま待たせることによって、今秋の対決はやり過ごしたほうが得策だ、と主張する者が少なくなかった。とくに、船の参加数ならば少数派でも、航行術と戦闘能力ならばトルコ海軍の交戦力をになっている海賊たちに、それを主張する者が多かったのである。
この場合、海賊たちはたとえ少数でも、能力の点では「トルコ海軍の交戦力(の主力)をになっている」のような書き方が適当ではないだろうか。ほかの多数の船もやはり「交戦力をになっている」はずなのだから。
しかし、キリスト教側の払った犠牲も、少ないとは誰一人言えないものであった。
戦死者数――七五〇〇人
これは、イスラム側より数百しか少ないだけである。
この文章になると間違いは明らかだ。「数百少ないだけ」か「数百しか少なくない」としなくてはならない。「誰一人言えない」もやや大げさに見える。私がこれまで親しんできた書き手の作品では、こういうひっかかりは、ちょっと経験がないのだが……。
DIARY:025