(3-01)「3アンリの戦い」とエパメイノンダス
対立の深まる「3人のアンリ」をめぐって国民は大分裂し、互いに相手の心を探り合う疑心暗鬼に陥る。モンテーニュは『エセー』でこう語っている。
- 私は次のような誤った考え方を大いに非難する。
「彼は同盟派だ。なぜならギーズ公の寛大さを誉めているからだ」
「彼はナヴァール王の活躍にびっくりしている。だからユグノー派だ」
「彼は国王のご品行のこの点を非難している。だから心に謀反をいだいている」(3:01)
「3アンリの戦い」のその後を見ておこう。1588年5月、ギーズ公アンリは旧教同盟を結成し、新教軍を破った勢いでパリに侵入して国王軍を襲い、一時はアンリ3世を宮中に軟禁する。脱出してルアンに逃れるアンリ3世には、モンテーニュも随っていた。12月、ギーズ公は暗殺された。そして翌89年1月、大后カトリーヌが死去。4月、アンリ3世はナヴァール王との和睦を果たすが、8月には旧教勢力によって刺殺されてしまう。ナヴァール王アンリが王位を継承するのだが、旧教同盟派はスペインやローマ法王の援助も得て、これに対抗する。結局4年にわたる武力闘争を経た93年、アンリ4世は自ら旧教に改宗して初めてパリに入城した。モンテーニュが59歳で死去したのは、その前年1592年のことである……。
エパメイノンダスの稀有な徳性
さて、第3巻に戻ろう。1章の「有利なことと正しいことについて」で、モンテーニュが、歴史上のすぐれた人々の「第一位」にこの人物を挙げている。時代ははるか昔、紀元前371年、レウクトラの戦いでスパルタを破りギリシアの覇権を獲得した、エパメイノンダスという軍人=政治家である。エパメイノンダスを称えるモンテーニュの文は、これを読む者に深い感動を与えるだろう。
- 彼の自分の義務に対する尊重の程度はどこまで高いかはかり知れない。彼は決して負かした人を殺さなかった。祖国を自由にするというはかり知れない立派な行為のためにさえ、一人の暴君とその共謀者たちを、裁判の形式を踏まずに殺すことを潔しとしなかった。
- この人は実に適切に、巧みに戦闘を指揮した。というのは、戦闘が最高潮に達して狂乱と殺戮に沸き立って燃え上がっているときでさえ、これに慈悲の馬銜(はみ)を噛ますことができたからである。このような行為にいくらかでも正義の姿を加えることができるというのは奇蹟である。しかしそこに、もっとも柔和な、もっとも罪に汚れない、やさしい、寛大な品性を加えることは、エパメイノンダスの剛毅さにして初めてできることである。(*)
- 彼は、戦争に出て行くに際して、ミューズの神々に犠牲を捧げ、神々の優しさと陽気さによって、戦争の狂暴と苛烈をやわらげるように祈ったという習慣を、自分の敵(=スパルタ人)から借りたではないか。
- 国家に対する義務はかならずしも個人のあらゆる義務に優先するものではない⇒キケロ。これは現代にふさわしい教訓である。われわれは鉄の鎧で心までも固める必要はない。肩を鎧うだけで十分だ。われわれのペンをインクにつけるだけで十分だ。血の中につけるには及ばない。
- もしも、公共の利益のために、友情や、個人の義務や、約束や、肉親を軽蔑するのは、偉大な心と稀有な徳の働きによるものだと言う人があるならば、そういう偉大さはエパメイノンダスの偉大な心には宿り得ないものだと答えるだけで、われわれの言い訳としては十分である。(3:01)
(*) に続く節では、この時代の少し後に活躍する有名なローマの3軍人=政治家の次のような言葉を引いて、エパメイノンダスのそれとの比較を読者に促している。その響きの違いは限りなく大きいのではないだろうか。
DIARY:009
●モンテーニュ年譜(#02)●1478年 ラモン・エーケム死去。グリモン・エーケム(モンテーニュの祖父)が家業をつぐ。積極的に活動し、運にも恵まれ家運を隆盛に導く ●1485年 グリモン、ボルドー市参事となる。1503年、プレヴォーを兼務する●